格差社会問題をとりあげてしばらくたつ。最近の大きな社会の変化としては自民党が衰退し、民主党が政権を奪取したことが挙げられる。
このブログのスタンスは、現在の日本の社会構成では格差は存在してしかるべき物であり、貧困の解決は自己責任において十分になしうる、あるいは解決できないことはやむをえないというものだ。弱者という名のもとに他人の金にたかって生きようとする人の存在を徹底的に批判もする。お金を手に入れるということを自然現象であるかのように考え、それができないことを社会のせいにするということは自由な経済がある程度浸透している日本の社会においては不自然な考えだ。
お金を手に入れるというのは非常にシンプルな方法で可能となる。お金は人がいなければ自然には発生しない。必ずお金を出す人間がいる。お金を手に入れるには、相手にとってお金を出したくなるような何かを提供すればよい。その提供に成功すればお金は手に入る。
私が自己責任論を支持するのは、お金を手に入れる方法が上記のとおり非常にシンプルだからである。お金が思うように手に入っていないということは、それだけのものを誰かに提供できていないというだけのことだ。自分は必死に働いているのにお金が貰えないというのは、提供している物(労働内容)に魅力がないという単純な問題に過ぎない。つまり「必死に働いた」ということは重要な問題ではなく、単なる自己満足に過ぎない。相手をどれだけ満足させるか、相手にとってどれだけ魅力的かで手に入れられるお金というのは決定される。
相手にとって魅力的なものが何かというのは、誰にもわからないことである。労働力としての技術、人間的魅力、新しいアイディアや企画、便利であったり、安価であったり、ブランドとして魅力的な商品etc...。特定の相手にとって魅力的かどうかはわからないが、一般的に価値が認められている既存のものはあるので、そういうものを提供できるように努力することが、ある程度のお金を手に入れられるようになる近道だろう。また、価値の決定には営業力・交渉力・人的調整力というようなヒューマンスキルが大きくかかわる。数字や技術だけでは人間との取引では解決できない問題も多い。
自己責任論批判の中には、一度転落すると這い上がることができないのが現在の日本社会だという意見も見かける。これも基本的にはお金を手に入れる原理(上記)を考えれば、必ずしもそんなことはないと明言できる。労働を単なる日常的作業と考えているから、そういう考えにいたるのだろう。基本的には人間は何かを売っているのである。商品を用意せずに対価を得ることはできない。逆に言えば、魅力的な商品さえ用意すれば、お金を得ることが出来るといえる。
環境が豊かでなく、学費が高額なため、金持ちだけが学校に行けるという批判なども見かけるが、学歴というのは商品の1つにすぎない。学歴を手に入れていなくても、お金は手に入れられる。
働き出すまでにどういう商品を手に入れられるかというのは、ある程度運のようなものもある。しかし、何か売れるものを用意して生きていかなければならないということを意識して過ごしてきた人間は、たとえ貧しくても何かを用意できるものだ。自己責任というのは、育成過程の自分にも存在する責任である。誰にも教えてもらえないかもしれないが、貧しいのであればなおさら、自分で気づかなければいけない問題なのである。
極端すぎる自由経済も独占などの問題を生ずるが、現在の日本では各種法令ですでにある程度十分な統制が行われている。現在の日本でお金を手に入れられないのは、自己責任である。